2015年11月30日月曜日

何なんだよ、「歴史戦」ってのは??

なんか、恰も、「我に正義あり。キリッ」みたいな呼称だ。
自分らこそが、内外の、「理不尽な歴史認識」に、敢然と立ち向かう愛国者の戦列であるとでも言いたげだ。

しかし、こいつらは、これまで歴史学が獲得してきた一定の知見を、浅薄な「自尊心」によって否定したい、馬鹿げた反知性主義者どもだ。
悲しいのは、自分らの歴史歪曲を、辛抱強く国際的に訴えていこうとしていることだ。
それが、通用すると、どうやら本気で思い込んでいることだ。
しかし、気の毒だが、それはとても無理だ。

他国の土地で、ひどい行いをしたという歴史的事実は、否定しようにもしようがない。
あらゆる証言、公文書、日記等で、それは明らかすぎるほど、明らかになっている。
そのことを痛切に反省し、二度と繰り返さない姿勢を見せてきたことで、日本と日本人は、国際社会で信頼をかち得てきた。尊敬を、あつめてきた。
日本人であることを自負したいなら、その面で、するべきだろう。
しかし、自公政権がやろうとすることは、まったくの真逆でしかない。


自民党外交再生戦略会議(議長・高村正彦副総裁)がまとめた決議案の全容が19日、判明した。国際テロリズムの脅威や慰安婦問題など「歴史戦」に対抗できる強い外交基盤を構築するよう求めている。具体的には、東京五輪・パラリンピックが開催される2020(平成32)年を念頭に、外務省の定員を現在の5869人から英国並みの6500人に大幅増員させることなどを主張。自民党政務調査会の了承を経て、近く安倍晋三首相に提出する。
 決議案は、伊勢志摩サミット(主要国首脳会議)が開催される来年を「わが国のプレゼンスを向上させ、『地球儀を俯瞰(ふかん)する外交』を一層強力に推進する好機」と説明。靖国神社参拝や慰安婦問題で中国や韓国が仕掛ける「歴史戦」をにらみ、戦略的対外発信力を強めることを求めている。

なにが「地球儀を俯瞰する外交」だ。
笑わせないでもらいたい。
たんに、過去の所業を消し去りたい、認めたくないという、究めて卑怯未練な、不純な動機を、エラソーなそれらしい言葉に置き換えるなよ。
そのために、公務員を増やして、国民の血税を無駄遣いしようともくろんでいる。
ふざけるな、と言いたい。

(次回につづく)


2015年11月29日日曜日

三面記事

とるに足らない、三面記事だ。
こういうことも、多々、あるであろう。
いろいろな人が、このニッポンという国土ののうえで、息をしている。
なかには、「うかつ」な人もいる。
否、人間そのものが「うかつ」であると言っても過言ではない。
ミスをしたことのない人の例を、自分はきいたことがない。
 
 
28日午前11時50分ごろ、愛知県春日井市のアパートに住む会社員・岩下佑也さん(28)方で、岩下さんの妻(22)から「娘が風呂で溺れた」と119番通報があった。春日井署によると、到着した救護隊が10か月の長女・海詩(うた)ちゃんを病院に緊急搬送したが、心肺停止状態という。

 妻は、午前11時40分ごろ、深さ約5センチの湯を張った浴槽に子供2人を入れて近所のコンビニに買い物に行くため、外出した。約5分後に戻ると、湯が深さ25センチにまで増え、海詩ちゃんがぐったりしていたという。長男は立ち上がっていて無事だった。

 同署は、妻が湯を止め忘れたか、海詩ちゃんや一緒に浴槽内にいた1歳の長男が風呂の操作パネルに手を触れたことで、湯が増えてしまった可能性があるとみて、捜査を続けている。妻は「子供たちを浴槽に入れておけば外に出ないので安全だと思った」と話しているという。佑也さんは仕事に出ていて不在だった。
「うかつさ」が重大な結果となった。
この母親の、今の悲惨な心境は、察するにあまりある。
一生、この十字架を、背負っていかなければならないだろう。
あまりの、「救いのなさ」に、言葉を失ってしまう。

しかし、悲しいかな、確信するのは、この母親の「うかつさ」に対する、バッシングが加えられることが、ある程度、予想されることだ。

「どうして風呂からあげて外出しなかったのか」
「母親の資格はない」
「そもそも赤ちゃんから目を離すとは言語道断」
「危機意識があまりに希薄」

反論のしようのない文言が並ぶことが、今から目に見えるようだ。
「馬鹿な母親、でも自分は賢い」という、倒錯した優越感も、少なからず惹起されるだろう。

人に言われるでもなく、この悲劇で、じゅうぶん、母親は打ちのめされている。
記事にすることで、さらにそういう「鞭を打つ行為」を誘発することに、自分は疑問を感じる。

しかし、この記事によって、「絶対に乳児から目を離してはいけない」という警告は発することができる。

であるのなら、この手の記事にコメントするのなら、その面にだけにするべきだと思う。やたら、「うかつな母親」を叩いても、なんの生産性もない。

そういう自分は、甘すぎるのだろうかとも、思いつつ。






   
 
 
 

2015年11月26日木曜日

極右政権誕生の淵源

前回の記事の続き、あるいは補足のようになるかもしれない。
毎日新聞の岸井成格氏が、戦争法案にかんする一連の発言のせいで、「NEWS23」を降板させられるかもしれない件だが、押さえておかなければればならないことがあった。

この人物が、朝日の星浩や、読売の橋本五郎、共同通信の後藤謙次などの「政治記者」と並んで、2009~10年の間、記者クラブメディアがスクラムを組んで行った「小沢バッシング」の急先鋒であったということだ。
当時の拙ブログの記事の一部を、再録してみる。

岸井成格氏と言えば、言わずと知れた毎日新聞の特別編集委員である。
TBSの各ニュースワイドショーに頻繁に出演し、とくにみのもんたの「朝ズバッ」では、いつも電波芸者風情の粗雑な放言をフォローし、ヨイショしている情けない男である。
「陸山会事件」で騒然としていた今年の1月10日、テレビ朝日の「サンデープロジェクト」に出演し、「関係者」からの「リーク」報道について問いただされると、「検察に記者が質問をしても、検察は核心に迫る発言はしない。記者は、その時の検察の顔色を読んで、本当かどうかの記事を書く」と、仰天すべきことをのたまった人物でもある。
これは、「日本の記者は、客観報道よりも自らの感得したことを記事にする『主観報道』を採用している」と、正直な告白をしたことになる。
                     (世に噛む日日 2010.5.18)
 
岸井氏といえば、この「顔色を読む」発言が、真っ先に思い浮かんでくる。
あの頃、悪しき記者クラブメディアの旧弊に染まった記者の代表のひとりとして、しっかりと頭に刻みこむきっかけとなった。
話す内容も、「政局を読む」といったたぐいの与太ばなしでしかないように感じていた。
 
しかし、近年、戦争法案が重要なテーマとなってくるにつれ、このひとは正論を吐くようになった。
毎日のなかでも保守的と言われていたらしいが、なにか、心境の変化があったのか、もともと、こういう信念の持ち主だったのか。
 
今の極右政権を生み出した淵源のひとつは、間違いなく、民主党政権の成立にあった。
というより、「小沢叩き」で、検察とともに、政権交代の果実を踏み潰す先兵となった記者クラブメディアの愚行にあった。
その中心となった岸井氏に、その自覚があるのだろうか。
一度、きいてみたいものだ。
 
 
 

メディアの緩慢な「自死」

メディアの報道に、これほどの「横やり」を入れてくる政権の存在を、生まれて初めて体感している。
「政権への批判」が、「公正・中立ではない」というのだ。
どうして、こういう言い草を、またメディアは許しているのだろうか。
情けないこと、このうえない。
 
TBS、「NEWS23」のメインキャスターである毎日新聞特別編集委員・岸井成格氏が、来春をもって降板になるという報に接した。
戦争法案にかんする一連の発言が、政権の逆鱗にふれ、おそらくは、強力な圧力が、局に襲いかかったのだろう。
また、官製の団体が、岸井氏個人を糾弾する「意見広告」を、産経、読売という札付きの御用新聞に掲載したということもある。
それにビビったというのか。
迫りくる「言論の死」に、何を手を拱いているのか。
七十数年前、軍部ファシズムのたんなる「広報機関」と堕した結果、どれだけの民衆を扇動し、死に追いやってきたのだろう。
「公正・中立」というのは、「権力の側に偏らない」という意味である
それが、国民を主権とする民主主義社会メディアの原則なのではないか。
七十数年前の痛烈な反省から、それが確立されてきたのではなかったのか。
 
つい、数年前を思い起こそう。
民主党政権成立前後のことである。
戦後はじめて、宗主国の言いなりにはならないという姿勢を見せた政治家が、総理の座に座ろうとしていた。
国民の血税を湯水のように使い、借金を増大させ、自分のフトコロを暖める、シロアリのような既得権益者を一掃しようとしていた。
それに「政治資金規正法違反」という冤罪で、検察を使った、その政治家に対する反攻が始まった。「国策捜査」だ。
そのときのメディア各社は、まるで恰も「反権力」のような姿勢で、その政治家、小沢一郎を叩きに叩いた。
また、そのあと成立した「鳩山政権」に対しても、沖縄問題を中心に、大バッシングを展開した。
「国民の生活が第一」という旗を掲げた、戦後もっともリベラルだった政権が、まるで醜悪な権力であるかのように叩かれたのだ。
ある日、亡くなった有名な俳優を追悼して、朝日新聞に以下のような漫画が掲載された。
 
 
 
 
ビン・ラディンや、金正日とともに、鳩山氏や小沢氏が、「仕置き」をされるべき「悪の権化」として描かれているのだ。
しかし、鳩山政権は、報道メディアにかんしては、じつにオープンな政権だった。(鳩山政権が行った政策(1)記者会見オープン化
どうして、このような政権は徹底的に叩き、今や報道の自由ランキング61位にまで堕ちてしまったアベ政権にはおとなしすぎるほど、おとなしいのか。

メディアの緩慢な「自死」は、、やがて、僕ら主権者国民の、「言論」や「表現」の死をもたらすだろう。
もちろん、戦争は嫌だが、もっともっと嫌なのは、「自由の喪失」に他ならないのだ。
 
 
 
 

2015年11月23日月曜日

電波

眼が醒めると同時に聞こえてきた。
 
「やっと起きたか、この糞野郎。いつまでもいつまでも無駄に寝やがって」
 
「う・・うるせえ。」
 小さい声で怒声を放ってみたが、俺が「電波」と呼んでいるこの声には、逆らえないことを、何度も身に染みて感じさせられている。
 「さあ、外に出るんだ。包丁を持って、な」
 「昨日から何度も言ってるだろう。俺にはできねえよ。人殺しなんて」
 「お前はだから、駄目野郎なんだよ。そうやって人から馬鹿にされ続けたまま、一生を終える気かよ。さあ、外に出るんだ。出てよ、でかいことをやって、世間をアッと言わせてやるんだよ」
 「い・・嫌だ。そんなことしたら、警察に捕まって、一生、刑務所暮らしだ、へ・・下手をすると・・・死刑だ・・・・。」
 「俺の言うことが聞けねえのか?」
「電波」がそう言ったとたん、猛烈な頭痛が俺を襲う。
まるで鉄のタガで頭をしめつけられるようなその痛みに耐え切れず、「わかった、わかったよ!」と叫ぶしかなかった。
 
晒しを巻いた刺身包丁を懐に呑んで、俺は商店街を歩いていた。
 昼前のアーケードは人通りが少なく、歩いているのは、年寄りばかりだ。
 「どうした?何をしてる?さっさとやれよ。やってしまうんだよ。」
さきほどから「電波」は、頻りに俺に「決行」を促していたが、俺は一歩を踏み出せずにいた。それを押し留めているのは、俺のなかにまだ僅かに残っている「理性」とかいうやつだったのかもしれない。

また、あの頭痛が襲ってきた。
 俺は呻き声をあげて、その場にうずくまった。
 「大丈夫ですか?」
 声のした方を振り返ると、ひとりのスーツを着た中年の紳士が立っていた。
 頭痛は、その途端に消えた。
 渡された名刺に書かれた「よろず悩み相談室長」という、きわめて胡散くさい肩書きに、俺はすがりたくなって、その紳士に誘われるまま、傍らにあった喫茶店に入った。
 「どんなことでお悩みでしょう?なんでもおっしゃってみてください。お力になれると思います。」
 向かい合った紳士は柔和な笑みをたたえながら、俺に尋ねた。
 俺はその笑顔にひきこまれるように、洗いざらい打ち明けた。
 一ヶ月ほど前から「電波」が俺を批判したり、馬鹿にしたり、やりたくないことをやらせたり、とんでもないことを命令したり、逆らえば猛烈な頭痛を引き起こすことを。そして、ついに無差別殺人を命令するようになったことを。
 「そうですか・・」
 紳士は聞き終わって、ため息をつくように言った。
 「あんたもきっと・・」俺は投げやりな口調で言った。「今まで相談した何人かの知り合いと同じように、病院へ行けなどと言うんだろうな」
 「そんなことは言いませんよ」紳士はふたたび笑って言った。「心当たりがあります。一緒に来ていただけませんか?」
 
 紳士の運転する車は、高速に入り、一時間ほどして、あるインターを降りた。
 半信半疑についてきた俺は、黙って後部座席のシートにうずくまっていた。
すると、電波の声が、また聞こえてきた。
 「行くんじゃねえ。行くのはやめろ」
 「う・・・うるせえ!」俺は叫んだ。
 「どうしました?」
 運転する紳士が尋ねてきた。
 「また、電波の野郎が・・」
 「声はどこから聞こえてきます?」
 「前の方・・、この車が向かっている方向だ」
 「どうやら間違いなさそうですね。最近の凶悪犯罪のほとんどは、やつらの仕業だ」
 「ど・・どういうことだ?」
しかし、紳士はそれには答えず、「説明してる暇はありません。声のする方向まで道案内してくれませんか?」
 電波が頻りに俺を罵るその声の方向にしたがって、俺は道案内をした。
 車はやがて、小暗い森に入った。
これ以上、車が進めないという地点で降りて、俺たちはけもの道に歩を進めた。
 「まだですか?」
 紳士の問いに俺は答えた。
 「もうすぐだ」
と、そのとき、「キエー!」という、猿の叫びみたいな声がして、樹上から、数人の黒装束の男が飛び降りてきた。
 
 紳士は彼らの前に立ちはだかった。
 「やはり、お前たちの仕業か。ひとびとの脳に電波を送り、凶悪犯罪を犯させる。ずいぶんと、地味な地球征服計画だな。」
 紳士はそう言ったあと、両手を旋回させ、力こぶをつくるような形で止めた。
そして、叫んだ。
 「ヘーンシン!」
 奇声を発して最初に襲ってきたショッカーのひとりの黒い顔面に、ライダーキックが正確にヒットした。
 
 
(もちろん、創作ですw)

 

2015年11月22日日曜日

田舎の選挙

妻の弟は、さびれた地方都市の市会議員である。
来春、一期目の4年を終わり、二期目に挑戦する。
彼の選挙は、やれ戦争法制がどうの、アベ政権の極右路線がどうのといった大きなテーマとは、無縁だ。いや、無縁ではないが、そういうことを言っていても、クソの役にも立たないのだ。

妻の実家の、おそらくは半径4キロほどの、村落の住民の利益を代表するにすぎないから。
1000票を超えれば、おそらくは当選の圏内に入れる。それほどの「民意」の代表でしかない。
だから、蜘蛛の巣のような「しがらみ」にからめとられて、身動きできないでいる。

その「民意」のあいだで行われる冠婚葬祭や、村祭り、果てはソフトボール大会、運動会、すべてに出席して、祝儀、不祝儀を包まなければならない。
顔を出さなければ、「どうして来ない。誰が議員にしてやった。あいつも偉くなったもんだ」となる。4年前の選挙から、そういうことを目の当たりにして、「地方政治」というものの、生臭さを感じてきた。

僕も親族のひとりとして、彼の応援をしないわけにはいかない。妻は、時間の許す限り、実家に帰って、弟の選挙の準備を手伝っている。今このときも、実家に泊まり込んでいる。

じつは、明日、妻の一族の「親族会」が開かれる。
朝一番の列車で、僕は、それに向かわなければならない。
もちろん、選挙があるからだ。
 

このような事態がじゅうぶん予想され、今から憂鬱なのだが・・そろそろ寝なければならない。


 
 

幼さの罪

桜散る季節。
僕の大事なひとも散っていった。

そのひと・・僕の母は死の床にいた。
僕は意識のない母の横で、何時間も、ただぼうっと座っていた。
病室の外に見える満開の桜が、強い春の風に散らされて、吹雪いていくのを眺めながら。

肝臓に発生した癌細胞は、か細く小さい母のからだのあちこちに転移し、拷問のような苦痛を与えつづけていた。
     
「痛い。痛いの映児。お願い。助けて映児」
     
訴える母の言葉に、無力な自分を感じずにはいられなかった。
主治医にかけあい、苦痛を少しでも和らげる処置をお願いするのが精一杯だ
やがて、大量に投与されたモルヒネによって、母の意識は混濁し始めた。
うわごとみたいなことを口にし、突然はね起きて暴れたり、僕を指差して罵ったりした。
 
もはや、僕が誰であるのか、自分がどこにいるのかさえ、わからなくなっいたようだ。
母はすでに外界にはなんの関心もなく、迫り来る「死」という事実に対して本能的な反応をするだけの、一個の生物になってしまっていた。
 
人様に迷惑だけは、かけてはいけないよ。
 
そう、僕に教え続けた、愚直だった母が、いったい、どんな罪を犯して、このような苦しみを味合わなければならないのか・・。

ようやく眠りについた母を見守りながら、僕はあることを思い出していた。
小学校5年の夏休み。
浚渫船の船長だった父は、船のドック入りに伴って四国の今治に長期出張していた。
「お父さんのところへ行こう」
母は、急に僕と弟に向かって言った。

四国に渡る船のなか。
母は船べりに立って海を眺めていた。
そのうしろ姿は、声をかけようとした僕を拒絶するような寂しさがあった。
耐え難いほどの孤独と、心細さが伝わってきて、僕の胸を刺した。
そこに立っていたのは僕の母ではなく、ひとりの女だった。
幼かった僕にも、それははっきりと感じられた。

ほどなくして父の浮気が発覚した。
見知らぬ今治のアパートで、幼い僕ら兄弟を連れた母の前で、父は、ただ顔を
青黒く染めていた。部屋の片隅に座った若い女が、居直ったように、うすら笑いを浮かべていた。

それからの地獄のような日々は、思い出したくもない。
諍いの絶えない暗い家庭で、僕は思春期を過ごさざるを得なかった。
若く美しかった母の記憶は、あの船の上のうしろ姿が最後だった。

でもね、お母さん、今になって、あのときのあなたの気持ちはわかるよ。
あのとき、僕は幼くて、自分のことでいっぱいだった。
お母さんの気持ちを推し量れるほど、成長していなかった。
もし、あのときの僕が今くらいの年齢の僕だったら、お母さんに言ってあげられたこと、してあげられたこと、たくさんあったのに。
幼くて、残念でした。
幼くて、ごめんね。

僕は眠る母に、そう語りかけた。
しかし、そのときの母はなにも答えず、僕の眼には死への準備で忙しいように見えた。
 
 (2003/1/17)

2015年11月21日土曜日

「追悼」は、もういい。


 
 【カイロ時事】在英のシリア人権監視団は20日付の声明で、ロシア軍がシリア空爆を開始した9月30日以降、同軍の攻撃による死者数は1331人に達したと発表した。
  監視団は「このうち403人が民間人」と指摘している。
  戦闘員では、国際テロ組織アルカイダ系の「ヌスラ戦線」など反体制派547人が死亡。過激派組織「イスラム国」のメンバーは381人が命を落としたという。

パリでは、百数十人の民間人が、ISによって虐殺されたが、このシリアで虐殺された民間人は、403人だ。
世界の「良識」ある人々は、パリでの犠牲者のように、きちんとこの403人を追悼するのか。
東京スカイツリーは、追悼のライトアップをするのか。
とても、するとは、考えられない。

「先進国」住民の命と、彼ら紛争地の住民の命とは、確実な「差」があるようだ。命の重さは、同じだ。
「追悼」は、もういい。
おそらくは、今世紀じゅうかかるかもしれない、「争いのない世界」の現出に、人類のひとりとしての使命が問われている。
決して見ることがないだろう、「その日」のために。

その、「重い自覚」を、持たなければならない。


 

2015年11月20日金曜日

あのひと


信号待ちをしているバスの座席から、なんとなく、窓の外の街角を眺めていた。
 日曜の昼さがり、一月とは思えない陽気の中で、ひとびとが忙しそうに横断歩道の上を行き交っている。
その中のひとりに目を止め、僕は危うく声をあげそうになった。

 「あのひとだ・・・。」

赤いダウンジャケットを着て、向こうの歩道から道路を渡ってくる。
さすがに、やや老けてはいるが、変わらない美しい横顔は、忘れようとしても忘れられない。そして、その歩き方・・。間違いはない・・・。

あのひとと僕は、日本にポリオが大流行した年の前年に生まれた。
 僕の母親は、赤ん坊の僕を表に出さず、よその子供との接触を異常に恐れた。おかげで僕は、ポリオに罹ることを免れたわけだが、二軒先に住むあのひとは、一生、不自由な足で歩かなければならない運命を背負ってしまったのだ。

あのひとは、それでも元気よく、近所の僕たちと遊んだ。
 気の強い女の子で、決して僕たち男の子に負けてはいなかった。
 「傷害」を感じさせることは、ほとんどなかった。
 裏山に探検に出かけたり、そこに秘密基地をつくったり・・・。
 僕とあのひとは、幸福な子供時代を共有した幼なじみだった。

十歳になった年、僕は父親の転勤で故郷を離れなければならなくなった。
 別れの日、あのひとは自分で作ったビーズの首飾りを僕に贈ってくれた。故郷の山河をあとにする車のなかで、僕はそれを首に架けた。

 風の便りに、あのひともこの僕が住む町に移り住んだことを聞いたのが、中学三年の冬。父親を亡くし、母親の実家があるこの町に越してきたのだそうだ。
そして、受験用の参考書を買いに行った本屋で、僕はあのひとと偶然に再会した。
 進む高校は違ったが、僕らの交際は、それから三年間つづいた。大学進学でこの町を離れ、京都に旅立つ前夜、僕らは初めて結ばれた。もちろん、ふたりとも初めてだった。

遠距離恋愛の常として、次第に僕らは離れていった。今とは違って、ふたりを繋ぐのは手紙と、親に遠慮しながらの、短い固定電話のみ・・・・。帰省したある夏の日、僕はあのひとがこの町を離れて、遠くへ行ってしまったことを知った。
 行き先はわからないままに。

ところが、結婚式を数日に控えたある夜に、突然あのひとから電話がかかってきた。「もう一度、逢いたい」という。
 逢うには逢ったが、そこで僕は数日後に結婚することを伝えなければならなかった。
 「そうね、そうよね・・・お幸せに」あのひとはそう言って、去って行った。
 後姿が寂しげだった。

・・・バスは郊外を走っていた。
 僕は外の景色を眺めながら、奇妙な思いに囚われていた。
あのひとはいつも、僕の人生の節目、節目にあらわれる。
 誕生、高校進学、大学進学、結婚・・。
そういうときに、いつも傍にいた。
だとすれば、今日の登場の意味はなんだったのだろうか?

バスは、国道のバイパスにかかる交差点で信号停車した。ここのバイパスは交通量が、激しく、しかも空いているときは、車のスピードもすさまじい。
すぐ前の運転席に座っている運転手は、信号停車するたびに何度も時計を眺め、落ち着きがなさそうだった。
バイパスの側の信号が黄色になった。
こちらはもうすぐ青に変る。
だが、まだ赤だ。
そのとき、バスは発進した。
 見切り発進だ。
 窓の外に急ブレーキの甲高い音を発しながら、大型トラックが僕の方に突っ込んでくるのが見える。
 衝突する直前のわずかな時間、僕は納得していた。
あのひとが、僕に死を告げるためにあらわれたということを。


(創作です)

2015年11月19日木曜日

一万歩を譲る

「一日一万歩以上のウオーキング」を自らに課して、4か月ほどが経った。
雨が降っても、槍が降っても、今のところは挫折せず、続けている。
劇的だと思ったのは、中性脂肪の値が、半減したことだ。
このことが、挫折を回避する、大きなモチベーションになっている。
一万歩あるくには、約100分ほどの時間を要する。

歩くコースはさまざまだ。
一番多いのは、家から近所への公園までと、広大な公園内を5周するパターンだが、さすがに飽きてきた。
それで、電子ブックで小説を読みながら、歩くことにした。
何度か塀にぶつかりそうになったり、側溝に落ちそうになったりしたが、しかし、退屈することはない。
おかげで、一日100分の読書時間を確保することができた。まさに、一石二鳥だ。
 
前置きが長くなったが、というより、前置きの部分が大半を占めるような形になりそうだが、その「一万歩」を譲ってでも言いたいことがあった。
僕は、戦争法案に対しては、むろん、大反対で、即時に立法化を中止させるべきだと思っている。
戦後70年間保ってきた、憲法に基づく平和主義こそ、いまだ憎悪と報復の連鎖で無辜の血が流される実態を止揚する、最先端の思想だ。

しかし、ここで一万歩を譲ってみる。「百歩譲って」という言い方を100倍強くした表現だ。
集団的自衛権が、ニッポンの民衆を守るために絶対に必要だと言うのなら、とてもそのようには思えないが、「一万歩を譲って」、仕方ないと無理やり納得して、できないことはない。
ただ、我慢ならないのは、憲法の立憲主義がないがしろにされることだ。
憲法を変えずに、憲法そのものの効力を形骸化してしまう。これが、常態化されることだ。
麻生太郎の言った、まさに「ナチスの手法」。
 
いちばん、憂えているのは、「言いたいことを自由に言えない社会」の到来である。
自民党のクソガキ、違った、谷垣テイイチ幹事長が、またぞろ「共謀罪」の成立について云々しはじめた。
パリの同時テロを奇禍として、また、それを口実として、いずれは、憲法で保障されている筈の「集会・結社の自由」を制限しようという策動だろう。
アベ政権が着々と整備しようとする「ファシズム体制」。
子や孫が、著しく自由を制限された社会で生きていかなければならないかもしれないという予感には、じつに耐えがたいものがある。
 
 
 
 
 

 

2015年11月17日火曜日

この歌をこれからも歌える国でありますように

それなりにトシを重ねたオッサンが、ギターを持って歌っている。
近くの公園で、いつも老犬を連れて散歩してる、あのオッサンに似てるなあと思う。
やがて、歌っている歌と、声で、それが誰だか気が付く。杉田二郎。
40代以下だったら、誰だかきっと、わからないだろう。

この歌が流行った頃は、大して興味は湧かなかった。
なんか甘っちょろい歌のような気がしていた。
岡林信康や、加川良の歌に、こころ惹かれていたから、無理もない。
しかし、半世紀にも及ぶ、気が遠くなるくらいの時を経て、あらためてこうして聴いてみると、妙に歌詞が心に食い入ってくることに驚く。



オランド仏大統領は、本日、ヴェルサイユ宮殿で、「フランスは戦争状態にある」と演説した。戦争を知らなかったフランスの「子供たち」は、戦争を思い知らされることになったのか。

そしてわがニッポン。
戦後生まれの団塊の世代、全共闘世代、そして僕らの「シラケ」世代、バブル世代、ロスジェネ世代、「ゆとり」世代、当たり前のことだが、おしなべて「戦争を知らない子供たち」でこの国は満ちている。

むろん、アベを筆頭とする戦争好きな自公の政治家どもも、戦争を知らない。
戦争を知っている大人が、次々と天寿を全うしてゆくなか、戦争を知らない子供の一部が、文字どおり「子供としての幼稚さ」で「戦争」を玩弄している。
そのことに対する、強烈な皮肉ともなり得る歌だ。

「この歌をこれからも歌える国でありますように」
とりあえず、通販生活、グッジョブである。


権力による恣意的なプロパガンダに抗するものこそが放送法4条の精神である

14日は産経、15日は読売と、1ページ全面を使った、じつに気持ちの悪い「意見広告」が掲載された。
読者を睨み付けるかのような、大きな両眼のイラストの下に、<私達は、違法な報道を見逃しません>というタイトル。
「違法な報道?なんだ、それ」と思われた読者も多いだろう。
そして、その下に掲げられたのは、「放送法第4条」の文言だ。
 
放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の
放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。
 一  公安及び善良な風俗を害しないこと。
 二  政治的に公平であること。
 三  報道は事実をまげないですること。
 四  意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論  点を明らかにすること
 
さらに下まで読むと、どうやらTBS「NEWS23」で、キャスターの毎日新聞特別編集委員・岸井成格氏が、9月の放送で「メディアとしても(安保法案の)廃止に向けて、声をずっと上げ続けるべきだ」と発言したことに対し、「放送法第4条違反」と言っているわけだ。

「違法」と表現されれば、まるで犯罪者のようだが、これは、本当に「違法」と言えるのか?
この、5千万円ともいわれる「全面広告費」を、二紙に掲載できるほどの潤沢な資金力を持つ「謎の団体」、「放送法遵守を求める視聴者の会」とやらが、その根拠として、水戸黄門の印籠のようにたかだかと掲げた「放送法」の精神とは、どうもそのようなものではなさそうだ。
 
実は放送法は、権力の介入を防ぐための法律なのです。
放送法の目的は第1条に書かれ、第2項は次のようになっています。
「放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによって、放送による表現の自由を確保すること」
つまり、「表現の自由」を確保するためのもの。放送局が自らを律することで、権力の介入を防ぐ仕組みなのです。
この点に関しては、さらに第3条に明確化されています。
「放送番組は、法律に定める権限に基づく場合でなければ、何人からも干渉され、又は規律されることがない」
戦前の日本放送協会が権力の宣伝機関になっていたことへの反省を踏まえ、放送局が権力から独立したものになるような仕掛けにしたのです。
これが放送法です。(池上彰の新聞ななめ読み 2015・4・24
 
池上彰というジャーナリストの言説には、首を傾げることが多々、あるが、こと「放送法」にかんするこの認識だけは、評価すべきだと思う。
 
戦後、成立された多くの法律は、前時代のファシズム体制への反省から、「国民主権」の精神を色濃く取り入れていると思う。
宗教法人法、教育基本法など、おしなべて「権力の介入を許さない」という姿勢で貫かれているのだ。(教育基本法は、第一次アベ政権の改悪により、その基本を毀損されたが)
 
放送法も例外ではないだろう。
いかに、表現の自由というものを、権力から守っていくかという大前提があって、成立されたということを、押さえておかなければならない。
そもそもが、日本国憲法自体が、そういうものではないか。
権力の暴走を縛るための、立憲主義に貫かれた「硬性憲法」なのだ。
なのに、恰も、「国民の義務」を定めたものであることにしたい現政権と、この「放送法遵守を求める視聴者の会」の到達したい「着地点」は、同一のものであると断じることに、あまり「躊躇い」というものを感じない。
 
権力による恣意的なプロパガンダに抗するものこそが、放送法4条の精神である。
一条、三条で明記された「表現の自由厳守」の原則には敢えて言及せず、四条の文言のみ切り取って、いかにも「民主主義的」に「知る権利の侵害」などとほざく、この、おそらくは「官製?」と思われる団体。
 
なにが「知る権利」だ、片腹が痛いとは、このことだ。
それを言うのなら、われわれ主権者に知らされていない、さまざまな「不都合な真実」を、ひとつひとつ、全面広告で告発してみろよ。
「福島の現実」は、どうなってるのか、辺野古で反対住民をどうやって警察が弾圧してるのか、追及したら、どうなんだ。
なによりも、「知る権利」を云々するなら、まず渋谷のNHKをやり玉にあげろよ。
 
一般市民の団体を装った、官製団体が、これからも増えていきそうだ。
飲み下せない苦いものが、ずっと喉に引っかかっているような・・・そんな暗い時代が到来している。
 

 

2015年11月16日月曜日

百年の記憶


ずいぶん前に、録画していたNHKスペシャル「新・映像の世紀・第1集 百年の悲劇はここから始まった」を観た。
その翌日に、パリでの「同時テロ事件」をニュースで知り、なんだか、酢でも飲んだような気持に襲われた。
第一次大戦中、戦後、英米仏が行った、アラブをはじめとする中東諸民族への「裏切り」。
番組で、それを思い知らされた直後だったからだ。
事件の淵源は、100年前のここにあった。
当時、夥しく産出されはじめた原油を狙って、英米仏は、どういう仕打ちを、アラブの民に行ったのか。
 
 
「10年一昔」とよくいうが、100年はどのくらい昔なのか。
自分は、それほどの昔とは、思わない。
そのくらいの時間、生き抜いた人は、いくらでもいる。
そして記憶は、親から子へ、容易に受け継がれる
孫の世代へも、じゅうぶん、その受け継ぎは可能だろう。
「100年の記憶」など、決して「歴史」とはなり得ない。
いくらでもその鮮度を保ち、人間の群れのなかで、生々しく息づきつづけているのだ。
 
あのとき、「フランス帝国主義」の行った仕打ちが、「報い」となって、さまざまな過程を経て、現代のフランスの、若者たちの命を奪う。
テロは、人殺しは、むろん、許されるべきことではない。
それと同時に、そういう、そこに至ったことどもは、まずきっちりと総括し、自己批判しなければならないのではないか。
 

 
第一次大戦後、フランスが行ったアラブへの空爆。
「裏切り」の結果として行われたこの行為が、どれほどのアラブ人の「憤激」を呼び起こしただろう。
なのに、それを再び思い起こされる行為が、100年前と同じように、同じ国が行ったとすれば・・。
「怨み」は、確実に、子から孫へと伝承してゆく。
「テロは許されない」というのは正しい。
しかし、ただ単に、そう言い募るのみでは、「憎悪の連鎖」は確実に受け継がれてゆく。
ましてや、そういう「英米仏の論理」に、諸手をあげて賛意を表し、「テロとの戦い」に無批判に、軽薄に、合流を表明してゆくアベ首相。
この国の、自分やあなた、彼や彼女が、いかにこの首相を忌避していようとも、「テロリスト」はあくまで「同類」とみなし、その命を狙う。
「平和」という幻想が、そろそろ、ツギハギだらけの幕を下ろそうとする、「そのとき」が近づいてきた。
 
 
 
 

2015年11月14日土曜日

一本のバナナ

かなり昔、「一杯のかけそば」という話が流行ったことがありましたね。
貧乏な親子が毎年大晦日に、ある蕎麦屋の一杯のかけそばを食べにくるという話で、日本中が涙したということでしたが、僕は当時、「なるほど、貧乏だ!」と思う以外、この話のどこがそんなに感動するのかよくわからず、「俺はもしかしたら薄情者なのか」と人知れず悩んだものでした。
時代としては、バブルがはじける直前、大都市の下町に地上げ屋が横行し、奥様向けワイドショーまでが、株式投資のコーナーを設けるほど、世の中は好景気に沸いておりました。
思うに、そういう時代だからこそ、こういう貧乏話が好まれたのかもしれません。
しかし、この話を全国を行脚して講演しまくっていた人が、実は寸借詐欺の前科があり、実話とされていたこの話そのものがまったくのつくり話であったことがばれて、「なあんだ」と、今度は日本中がどっちらけたわけですが・・・。

しかし、あの話で唯一、光ったと思うのは、「大晦日に北海亭(店の名)のかけそばを食べる」ことに執着する母親の、どんなに貧乏していても「食」に対する思いいれを忘れない心意気でしょうね。
よく言われるように「食は文化」です。
人間と畜生を分ける大きな違いは実はここでしょう。
人間が文化的な動物であるからこそ、「食」は実に多彩で豊潤な世界をこの地上に現出せしめたわけです。

前置きが思わず長くなりました。
で、僕はなにが言いたいかというと、まあ、今日食った「一本のバナナ」のことです。
実は糖尿病を宣告されていまして、現在は大幅な食事制限を強いられているわけです。
ここ何日か、空腹のあまり、日に何度か昏倒しそうになる毎日であり、だからこそ、「食」の有難さが身に沁みてわかるのです。
一日に150gの果物を許されていて、昨日はリンゴ半個、今日はバナナ一本を食べました。
食べてみて・・「バナナってこんなにうまい食べ物だったのか!」と感嘆してしまいました。
食べ物って本当に有難い・・。
幼い頃、親がやかましくご飯の前に手を合わせさせたの意味が、今更ながらわかる今日この頃であります。
今まで「食べ物」に対する姿勢が、いかに杜撰なものであったか・・・・深い、深い、反省の毎日を送っております。
 
 

 

国家主義者に利用される司馬作品

「線を引いてここからが自分の土地、向こうがあちらの国、その結果、奪い合いをしてどっちが得したとか損したとか、そのために兵をあげてどうするとか、そういうものに血気盛んになられても困るんです」 
~安倍首相が“明治復活”旗印にする『坂の上の雲』、作者の司馬遼太郎が「軍国主義を煽る」と封印の遺言を遺していた~LITERA11/12
作家の司馬遼太郎が、生前、代表作というべき大河小説「坂の上の雲」の映像化を、頑なに拒んできたというエピソードが興味深い。
映像化によって、日露戦争、明治国家が称賛され、再び「強いニッポン」を顕現しようとたくらむ勢力に利用される。
人生の大部分ともいえる膨大な時間を費やし、心血を注いで紡ぎあげた畢生の大作が、そんなことに使われるのは、「真っ平御免」という気持ちだったにちがいない。

自分も青春の一時期、夢中になって読んだ覚えがあるが、実に面白いと思うと同時に、「手放しの明治国家礼賛」が気になった。
それと、「政治」という要素を排した、一種のゲーム、将棋の対局のように、戦争における作戦、「戦略・戦術」という側面を、語っているところ。
バルチック艦隊を覆滅させた作戦参謀が主人公だから仕方がなかったのかもしれないが、そこを読んで「戦争って面白い」と感じてしまう自分自身を恐ろしくも感じた。

映像化されようと、されまいと、かつての日本帝国の復活を夢見る国家主義者どもに、利用される要素がいっぱいに詰まった小説であったのは、間違いない。
事実、1990年代にあらわれた「新しい歴史教科書をつくる会」の面々が、この小説を「バイブル」扱いしていたのを今でも覚えている。
あのときの、司馬ファンとしての憤りといったら、なかった。

エッセイなどを読めば、司馬氏が、徹底した反戦主義者だったということがわかる。 戦車連隊の小隊長として、大陸に配属された経験から、戦争というものの愚劣さを、自分の五感すべてで理解していたのではないか。

司馬氏が次にやるべきことは、たまたまロシアに勝ってしまったために、その後に驕りに驕ってしまったニッポン軍部の腐敗を描くことだったと思う。
事実、晩年には「ノモンハン事件」の資料を渉猟し、いずれは作品化するつもりだったようだが、それは果たされなかった。
ニッポン陸軍の腐敗と堕落が主な因で大敗に終わったあのいくさを描くことによって、「日露戦争バンザイ」とやってしまったこととのバランスをとろうとしたのだろうか。

(次回に続く)


2015年11月13日金曜日

さびしい

眠りから醒めたときのように、頭のなかはもやがかかったようにぼんやりしている。
 私は炬燵のなかに足を突っ込み、背をまるめて、視線だけはテレビの画面に焦点を合わせている。
 若い頃はそれなりにスターで、少々、齢を重ねたあとは、すっかりテレビや映画から姿を見なくなっていた中年の女優が、のんびりと湯に浸かっている。
 傍らには、妻と娘がいて、テレビには眼もくれず、写真や結婚式場のパンフレットを間にして、ときおり声を立てて笑いながら、さかんに喋っている。
 
 娘の嫁ぐ日が、日に日に近づいてきていた。
 妻と娘は、毎日のように、結婚の準備のことについて話し、軽い興奮状態のなかにいた。
 式には誰を呼び、誰をはずしたらいいか。
 プライベート用の写真やビデオの撮影は、誰にまかせたらいいか。
 衣装はこんなものでいいか。髪形はもう少し、大人っぽいものにした方が良いのではないか。
 新婚旅行用のパスポートを取りにいかなければ。たしか期限は去年で切れている。

 私の存在など、そのときは忘れているようである。
 俺はすっかり、疎外されている。
 年甲斐もなく、そんなことを思い、しかし、口に出すわけにはいかず、私はせめて不機嫌そうに黙っているほかはなかった。
 夢中で喋っている娘の顔を横目で見ると、幼かった頃の面影が、その表情の端々に浮かんでいる。
 23歳になった今でも、たとえば好きなものを食べているとき、テレビに夢中になっているときなど、無心になったときの顔は、4,5歳の童女だった頃、そのままだった。
 私が家に帰ってくると、駆け寄ってきて、抱きついたこと。
 庭で遊んでいて、古釘を足で踏み抜き、背に負って、近くの病院へ駆け込んだこと。
 10年を隔てて生まれてきた弟を、まるでおもちゃのように可愛がったこと。
 雨に降られてびっしょりになって、拾ってきた捨て犬を抱き、「お願い、家で飼ってやって」と涙声で私に訴えかけたこと。
 そんな思い出のひとつひとつが胸をよぎり、脳裏をかすめて、いたたまれなくなってきた。

 「ちょっと、出てくる。」
 私は立ち上がって、妻と娘にそう告げた。
 玄関から外に出ると、娘があのとき拾ってきた犬が、嬉しそうに尻尾を振り、私に向かって「わん!」と吠えた。
 お前だけだよ、今、この家のなかで俺の存在を意識してくれているのは。
 私は苦笑しながら犬にそう言って、門扉を通り抜け、通りへ出た。

 どこへ行くというあてもなく、私は漂うように歩いていた。
 山を切り開いて出来た住宅地なので、すこし行くと、昼間でもほの暗い林の中に入ってしまう。
 林を抜けると、そこにはちょっとした公園があり、一様に、糞始末用のビニール袋と園芸用のスコップを持った人々が、犬を散歩させていた。
 俺も犬を連れてくれば良かったな。なぜ、そのことに気がつかなかったのだろう。
 そう思いながら、歩いてゆくと、ジャングルジムのある、すこし広くなったところで、ベンチにひとりの老婆が座って、遊んでる幾人かの子どもをおだやかな顔で眺めている。
 「やあ、またお会いしましたね」
 私はにこやかに笑って、その老婆に声をかけた。
 「ああ、これはこれは、おひさしぶりでございます。」老婆は深々と頭を下げ、歯のない口を開けて笑った。「また、こちらに来なされたか」
 この老婆は、私が昨年、大きな交通事故に遭った直後くらいから、この公園に姿をあらわしていて、いつもこのベンチになにをすることもなく、座っていた。
 最近の年寄りでも着ないような、縞目の入った灰色の和服をいつも着ており、昔の漫画に出てくるような、いかにもお婆さんといった風情である。
 私が横に腰をかけると、しばらく老婆は私の横顔を見つづけている。
 「やだなあ。顔になんか、ついてますか?」私は笑って聞いた。
 「いやね、寂しそうじゃなあ、と思いましてのう」老婆は答えた。
 「そうですか・・。たしかに、娘が近いうちに嫁ぐということはありますがね・・。」
 「ほうほう。それはおめでたいことで。父親は、たしかに寂しいじゃろうのう」
 「ただね・・・。なんか、それだけじゃない。娘が嫁ぐのなら、寂しさと同時にそれなりの喜びがあって、複雑な心境だと思うのですが、この寂しさはそういうものとは違う」
 「どんな寂しさなんじゃろう?」
 「なんかね、寂しいというより切ないというか、きゅっと胸が縮んで、身の置き所がないというような。問答無用の寂しさとでも、いいますか」
 「私にも覚えがありますて」老婆もまた、寂しげに笑った。「しかしな、そのうち慣れる。慣れてしもうてな、気持ちがこう、透き通ってくるもんです」
 「そんなものでしょうか?」
 「ときどきな、今のあんたのように、そうやって忘れる。それがなくなってきたとき、私のように透明になれるもんです」
 「どういうことなんでしょう?」
 「まあ、帰ってみなされ。そうしたら、思い出しましょう」
 そう言って、老婆はまた、声を立てずに笑った。

 帰ってみると、妻も娘も居間にはいなかった。
 奥の仏間の方で、りんをたたく音が聞こえる。
 行ってみると、ふたりが仏壇の前で手を合わせている。
 「お父さんに花嫁姿、見せてあげたかったね」
 妻が湿った声で言った。
 「私、親不孝だよね」
 娘の声も湿っている。
 「そんなことはないよ。私はおまえの花嫁姿もなにもかも、すべて見ることができる。安心しておくれ」
 すべてを思い出した私は、娘の背中に、必死で語りかけた。
 娘の背中が、ぴくっと動いたように見えた。
 「なんか、お父さんがね、私に語りかけてくれたような気がする。いいんだよって言ってくれたような」
 娘が妻に涙声でそう言うのを聞いて、私は暖かいものに包まれ、寂しさが和らいでいくのを感じていた。
 


 

2015年11月12日木曜日

助手席のひと

(ホラー話です。こわがりの方は、明るいときに読んでください)

単身者の引っ越しの依頼を受け、ひとりで出かけた。
Y市の近郊まで、トラック一台分くらいの引越し荷物を積みに行き、わがK市まで運ぶ。
灰色の空は低く、暗鬱な国道を走る車はまばらで、目立つ渋滞はない。
3時間ほどで、目指すワンルームマンションに着いた。
数週間前、依頼の電話がかかってきたとき、年配の男性の声だったので、単身赴任のお父さんが、めでたく帰郷するのかなと思っていた。
行って見ると、僕よりすこし上くらい・・・団塊世代くらいの男性と、奥さんと思しき女性が荷造りをしている。
ふたりとも「よろしくお願いします」と言ったきり、無言でもくもくと作業をつづけている。

まあ、長年こういう仕事をしていると、いろいろなお客様に接する。
僕は別段、気にすることもなく、搬出作業にとりかかった。
ただ、不審な点があった。
窓際に置かれていた、たくさんのぬいぐるみ。
布団やカーテンの色がピンクだし、ビニール紐で括られた本や雑誌は、若い女性向けのものばかり。
あの団塊世代の持ち物とは、とても思えない。

僕は想像した。
この部屋に住んでいたのは、あの夫婦の娘かもしれない・・。
そういえば、奥さんがブーツやスニーカーなどの靴類をダンボールに詰めているのを、横目で見たとき・・。
小さなハイヒールを、愛しそうに撫でて、なんだか涙ぐんでいるように見えた。
夫婦の重い悲しみのようなものが空気を伝って僕にも感じられた。

「そうか・・・。」

きっと、この夫婦は、娘を亡くしたばかりなのだ。
故郷から離れたこの地で、思いもかけないことで命を落とした娘の、その後始末にやってきたのだ。
だから、あんなに空気が重く、澱んでいるのだ。
だからと言って、根堀り葉堀り、事情をきくわけにはいかない。
しかし、きっとその想像は、間違いのないところだろう。
僕は、厳粛な気持ちで作業をつづけた。
荷をすべて積み終わったのは2時間後。
すでに、正午近くになっていた。
夫婦は新幹線で先に帰って待っているという。
僕は、夫婦に挨拶をして、来た道を戻りはじめた。

なんとなく身体がだるく、頭痛がして、つらい道行(みちゆき)だった。
途中のS市あたりで、信号待ちのとき、反対車線に仕事仲間のトラックが止まっているのに気づいた。
彼はいつものように手をあげて合図をしたが、それを返すのも億劫なくらい、頭痛がひどくなっていた。
信号が変わって、そのまま彼とすれ違い、しばらく走ると海底を通るトンネルが見えてきた。
それを抜けながら、あと少し、あと少しと念じ、ずっと歯を食いしばっていた。

それから数日、寝込んでしまった。
頭痛に耐えながら、あの夫婦の家に荷卸ししたのが、こたえたのだと思った。
心配したのか、S市ですれ違った仕事仲間が電話してきた。
僕は布団のなかで携帯を耳にあて、少し、雑談をした。
「そういえば・・」彼は思い出したように言った。「こないだ、S市を走ってたな」
「ああ、Yからの帰りだ」
「なんか、若い女の子を横に乗せていたじゃないか」
「え・・・?」
「髪が長くってさ、真っ赤なルージュ」
「い・・いや、オレはひとりだったぜ・・・」
「嘘をつけ!むちゃくちゃ美人だったじゃないか。顔はなんだか蒼ざめた感じだったけどな」
「・・・・。」
「まあ、まさか愛人ってわけじゃなさそうだし、お客さん?」
「・・・そ・・・そうかもしれない・・・」
「おい?どうした?なんだか苦しそうじゃないか?」

布団の上に、何か大きく黒いものがまたがって坐っていた。
その重さで、息もできないくらいに苦しい。
そして僕の脳髄に、そいつは、あの町に置いてきた、さまざまな未練について語り始めた。



はるか遠い昔の話

すこし風の強い、冬の夜だった。
車椅子を押す手が悲鳴をあげたいほど、冷たかった。
生まれて初めての経験・・・。
ひとりの「傷害」者の生命を預かっているという緊張が、僕の全身を支配している・・・。

かじかむ手からそのプレッシャーが伝わるのか、押されている彼女は、ときおり「大丈夫、大丈夫」と僕に呼びかけてくれる。
「町はすべて『健常者』のものなんだ・・」

そんな腹立たしさが、一方でつのってきて、自らを持てあます。
どうして歩道というやつは、こんなに段差が多いんだろう。
今までなにげなく歩いていた町の非情さに、今更ながら気づく自分が疎ましい。

小倉駅に着いた。
これから彼女と山口行きの列車に乗らなければならない。
改札を抜け、ホームに昇る階段まで行く。
そこで僕は途方に暮れた。恨めしい目で階段を見あげた。
「手伝ってもらうのよ、そのへんの人に」
彼女のその言葉を聞いて、僕はあたりを見渡した。

おりよく、体格のいい中年のおじさんが通りかかった。
僕はおじさんを呼びとめ、おそるおそる、一緒に彼女を上まで運んで欲しいと依頼した。

するとおじさんは、「よっしゃ」とこころよく頷いてくれた。

列車を待つ間、僕は彼女と邪馬台国の話をした。
歴史好きで話が合うところを気に入って、彼女自ら、帰るまでのエスコート役に僕を指名したのだ。
話がすこし途切れたとき、彼女がふっと呟いた。
「ねえ、結婚してくれと私が言ったら、あなたはどう答える?」
突然の、重い問いだった。
僕は答えることが出来ず、下を向いて絶句してしまった。
やがて、彼女の笑い声が響いた。
「冗談よ、冗談。ごめんね、悩ましちゃって」

彼女の訃報を聞いたのは、それから二年後のことだった。
自殺だった。
家から近くの川にかかる橋まで這いずっていって、欄干にロープを結わえて、首に巻き、そこからぶら下がったということだった。
ひとりの、支援者である男性に失恋したという。

その話を聞いたとき、僕は生まれたばかりの長男を抱いていた。
赤ん坊は親父の泣き顔を、不思議そうに見ていた。




2015年11月10日火曜日

生き抜く勇気

 ――――おれは好まない。
 国のために、藩のため主人のため、また愛する者のために、自らすすんで死ぬ、ということは、侍の道徳としてだけつくられたものではなく、人間感情のもっとも純粋な燃焼の一つとして存在して来たし、今後も存在することだろう。――――だがおれは好まない。甲斐はそっと頭を振った。
 たとえそれに意味があったとしても、できることなら「死」は避けるほうがいい。そういう死には犠牲の壮烈と美しさがあるかもしれないが、それでもなお、生き抜いてゆくことには、はるかに及ばないだろう。
 (山本周五郎『樅の木は残った』より)

そうなんですよね。僕も好みません。

主人公の原田甲斐は、結局、その「好まない死にかた」を選択せざるを得ないのですが、「壮烈さ」や「美しさ」に感嘆するあまりに、その価値観を至上の位置に据えて、自分や他者の命を軽んじ、ひいては死さえ強要してしまうことがあるということを、心に刻むべきだと思います。
死よりも生を択ぶほうが、ずっと勇気を必要とし、困難なときがあると思います。
すべての「生きもの」の基本的な使命は、「生き抜くこと」に他ならない。
死を「美しさ」に荘厳し、命のうえになにやら価値を置こうと策動する思想、教え、価値観には、あくまで「NO」を叫び続ける自分でいたいと思います。


2015年11月9日月曜日

 妻に捧げるリスペクト

一緒にテレビを見ていると思ったのに、問いかけに返事がないのでふと見ると、ソファで寝入っていた。
タオルケットをかけてやろうとすると、腕に刻印された無数の内出血の青ジミが我が目を射る。
子供たちにひっかかれたり、掴まれたりした跡だろう。

出会ったときは、すでに保育士になって1年だった。
S学園は視覚障害児の施設。
彼女はそこで日々、奮闘していた。
僕は彼女と、闘争の場で知り合った。

熊本の在日韓国人青年が、留学先の母国、韓国でスパイ容疑で逮捕された。
1975年、朴軍事独裁政権下で起きた事件だった。
留学生に下された判決が、死刑。
すぐに日本で支援団体が結成され、僕と彼女が加わったのだ。

以来、40年、僕は彼女と人生を共に過ごしてきた。
いつも妻としての顔しか見て来なかった僕が、あるとき、彼女の職場へ行く機会があった。
そこで、十人ほどの自閉症児を相手に、一生懸命、遊戯を教える彼女の姿を見ることになった。

子供たちの誰ひとりとして、言うことをきかない。
あっちをウロウロ、こっちをウロウロ・・。
とても、収拾できる状態ではないところを、彼女は懸命にまとめ、集中させようとしている。

僕は、感心した。
とてもあんなことは、できない。
このときほど、妻を尊敬したことは、なかった。
そこにあるのは、今まで自分が知らなかった、職業人としての妻だった。

腕の青ジミをさすってやって、タオルケットをかけた。
「お疲れさま」
そう声をかけても、彼女は寝息をたてるだけだった。


 

2015年11月8日日曜日

ファシズムの笑顔





凶暴なファシズムの使いは、爽やかな笑顔を巷に振りまいて、僕らと僕らの子や孫の、かけがえのない人生に介入するために、やがて、戸口の前に立ち、傍若無人なノックをするだろう。
彼らは、魂の底から、自分は「善」を行っていると思い込んでいる。
そして、この国が、ファシストどもに壟断されてしまっていることに気づいていない。
「学会が言うから、公明党が言うから、間違いない」と信じて疑わない。
自分の思考を他人に預けているくせに、妙なテンションの高さで、投票の依頼をし始めるだろう。
存在すら忘れている、昔の同級生が、卒業アルバムから辿り、電話をかけてくるかもしれない。
はるか遠隔地に住んでいる知り合いが、いきなり訪ねてくるかもしれない。

きっぱりと、断ろう。

自分は、国家主義やファシズムに加担することは、絶対にできないと言おう。
そして、彼らが依頼した候補者が落選するために、あらゆる力を傾注しよう。

屈託のない笑顔で、人の好さを全身にまとって、あなたに近づいてくる彼ら、彼女らこそ、ファシストの使い、地獄の邏卒だと思って、対峙しよう。
決して、だまされることのないように。
 
 
 
 
 
 
 
 

想像力の欠如

貧乏だが家は自分の持ち家だ。
それなりに平穏に暮らしていたが、ある日、隣の金持ちがライフルを手にやってきた。
そして言った。
「今日からこの家は俺の家だ」
銃口をつきつけられては、僕も従うしかない。
「そのかわり、このボロ家を綺麗にしてやるよ」
男はそう言って、金を出して家の内部を改築した。
「どうだ、住みやすくなっただろ?」
男は恩を売るようにそう言う。
たしかに立派な家になったが、男は主として居座ったままだ。
家を返してくれる様子はない。
僕は男の家来のようになって、ここで暮らすしかないのだ。

歴史修正主義者やレイシスト、ネトウヨ、の「歴史観」によく見られる「日本は韓国を併合して鉄道や道路などのインフラを整備して住みやすい国にしてやった」という主張とは、ようするにこういうことだろう。

「自分の国が、あるいは自分自身が、そのような立場になったらどう感じるだろう」という想像力。
人間ならそういう感覚を持つのは当たり前だと思ってきたが、どうも最初からそういうものを先天的に持ち合わせない輩が、世界でも稀な極右政権のもとで、この国土を跳梁跋扈している。



 

2015年11月7日土曜日

一日が48時間、残された人生が80年あればいいのに。


読まなければならない本が多すぎる。観なければならない映画が多すぎる。一日が48時間、残された人生が80年あればいいのに。

けれども、一日はあくまでも24時間、残された人生時間は・・・やっと十指に余るくらいか・・。

もう少し、有意義に人生の時間を使ってくれば良かったと思う。
とくに、時間が余りあった、あの、青春時代、学生時代・・。
なんで、もっと勉強しなかったんだろうと、歯噛みしたい気持ちで思う。
いま、ああいう「自由なとき」を与えられたら、僕は死ぬほど勉強をしていただろう。
でもあの当時、僕は本当に勉強が嫌いだった。
ああ、タイムマシンがあったら、40年ばかし過去に戻って、あの頃の怠惰な僕の尻をぶっ叩いて、「お前、もっと勉強しろよ!」と、どやしつけてやるのに。

で、今の僕はどうかというと、だらだら仕事に流されて、わずかな暇にPCに向かい、酒を飲んで、寝る前にミステリーや時代小説を読みふけって、だらしない睡眠を貪っておるのだ。
30年先くらいの時代から、死にかけた未来の僕がやってきて、「しっかりせんか!」と背中をどやしつけられる日が訪れても、少しも驚くことはないだろう。